イラスト、油彩画、水彩画、パステル、仏画、シルクスクリーン版画、彫刻(ブロンズデザイン)、模型
出身地:北海道余市町
活動拠点:小樽市、苫小牧市、恵庭市、千歳市 
弟子:伊藤晴二(苫小牧市)


昭和50年(1975年)
【北方領土返還を願ってマラソン展覧会】

 昭和50年(1975年)に北方領土返還を願い、道内二十都市をリレー式で回る「マラソン展覧会」を行いました。本間は知人のアートディレクターと話すうちにこの企画を思いつき、北方領土復帰期成同盟が後援してくれることになりました。短期間の展示ではその場限りになってしまうので、オホーツク地方にゆかりのある絵を一枚ずつ、二週間ごとに変えて一年間絶え間なく飾る方式にし、根室市のほか網走・北見・紋別・釧路など道内二十市の公民館や市民会館を会場に選びました。展示されたのはどれも100号の力作ばかりで、納沙布岬や国後島などオホーツク海を題材にしており、同じ北海道の海でも故郷・余市町が面する日本海とは違った厳しさと美しさを表現した作品でした。本間は当時、「北方領土の復帰は非常に難しいだろうが、北海道に生まれ育った画家の一人として、復帰運動に協力できるこの展覧会は最後までやりとげたい。一人でも多くの人達が『次はどんな絵が展示されるのだろう』と関心を寄せてくれるようになれば、復帰運動にも必ず役立つと思う」と語っていました。




昭和54年(1979年)【故郷余市町に油絵を寄贈】
昭和56年(1981年)【紺綬褒章を受賞】


 北海道内を放浪し各地の絵を描いた後、苫小牧市に移住し望郷の気持ちを絵筆に込め、「余市川暮色」と題する大きな油絵(二百号)を生まれ故郷・余市町に贈りました。友人の一人から、「開町80年を記念して建設されている3階建ての公民館のロビーに君の絵を展示したい」という電話があり、これを受けてのことでした。本間は、青春時代にニッカの野球部に所属しており、工場裏の余市川を中心にスケッチして題材を検討した結果、「余市川の夕映え」にテーマをしぼりました。「余市川でフナを釣ったりして楽しんだ思い出が、絵を描いていると次々とよみがえってきた」と周囲へ語っており、油絵の評価額が紺綬褒章対象の評価額を超えていたことから、町民や余市町役場が本間を紺綬褒章に推薦し、1981年、画家としては非常に珍しいケースで同賞を受賞しました。本間は当時、苫小牧に住んでいたので、「第二の故郷である苫小牧市にも、施設に絵を贈ったり催し物のデザインを行うなどして貢献をしていきたい」と語っていました。


 昭和55年(1980年)
【北海道鉄道100年記念版画制作】

 この年、北海道鉄道100年記念として、「光道千里 手宮札幌明治13年11月28日運転」と題するシルクスクリーン版画を制作しました。版画には札幌鉄道局やSL義経号、カメラを準備し義経号が来るのを待ち構えるジョセフ・クロフォード技師、北海道鉄道唱歌南の巻も描かれました。(摺師久保田幸生)




昭和58年(1983年)
【反戦壁画「十界彷徨」の制作に着手。タイトルは書道の大家、町春草さん】

 「十界彷徨(じゅっかいほうこう)」は1984年に完成した縦2メートル・横40メートルにわたる大壁画で、「画家として平和のために出来ることは何か?」と自分を振り返り、意を決して取り組んだアートワークです。大きなキャンバスは「開戦」、「原爆」、「平和」の三部構成で、タイトルの文字は国内屈指の書道家である町春草さんへ資料を送り相談をしたところ快諾して頂きました。「十界」とは仏教用語で「全世界」を意味し、「一人でも多くの人に戦争の悲惨さが伝わるよう工夫を凝らした」と語っています。この作品へは問い合わせが多くあり、各メディアでも取り上げられ、この年の終戦記念日にあわせて道内各地で展示することになりました。また、希望があれば学校など教育機関にも貸し出すとも語っていました。

     



昭和58年(1983年)
【北の画集Ⅰを出版】

 有名・無名を問わずたくさんの方々から応援をいただいて画集を制作しました。皆様へ感謝申し上げます。




昭和60年(1985年)
【皇太子さまご夫妻(今上天皇)へニシンのパステル画を贈る】


 昭和60年(1985年)に皇太子さまご夫妻(今上天皇ご夫妻)が来道し、サロマ湖で行われた「第五回・全国豊かな海作り大会」へご出席されました。この時にニシンの稚魚を放流し、お泊りになられたホテルの部屋に本間の版画が3点飾られたことから、これを記念してニシンのパステル画を進呈しました。ホテル側から部屋へ飾る版画の注文があったときには、「北海道らしい風景を」とだけしか聞いておらず、後に皇太子さまご夫妻に見せるためだったと聞かされたそうです。後日手塚侍従長から電話があり、皇太子さまがたいそうお喜びになって、「ホテルの部屋の版画も興味深く見せてもらった、本間によろしく」と仰っていたそうです。




昭和62年(1987年)
【郵政省お年玉付き年賀はがき「くまっこ」原画制作】





昭和63年(1988年)
【仏像彫刻展示館オープン。入場料無料】


昭和62年(1987年)から恵庭市白樺町の漁川のほとりに、展示物を用意したり庭園を作ったりして仏像彫刻展示館をオープンさせました。(敷地内には大きな涅槃像がシンボルとして設置されましたが、この涅槃像はもともと牧場地区に購入した土地での構想でしたので、ご説明は控えさせていただきます。)また、敷地内には森繁久彌さんから頂いた「道は遠く ただコスモスの風に揺れ いづこに行くか北のまた北」の詩碑や、オノヨーコさんと町春草さんにご協力をいただいて制作したジョン・レノンの碑、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩碑、平和の灯火(原爆の火)のガス灯なども設置され、「市民はもとより自衛隊員にも音楽で平和を感じてもらえれば」と語っていました。


昭和63年(1988年)
【恵庭大橋のブロンズ像「夏の日」と「冬の朝」をデザイン】






平成2年(1990年)
【第41回さっぽろ雪まつりポスターデザイン】


さっぽろ雪まつりのポスターに、これまで二度本間のデザインが採用されています。一度目は平成2年(1990年)のデザインで、赤い手袋の雪だるまと鳩を描き温かみのあるほのぼのとした印象に仕上げました。二度目は平成7年(1995年)の赤いショールを身にまとった雪だるまで、目にうっすらと青を入れ外国色も出し、北海道の国際化と平和を願うデザインにしました。このポスターには雪だるまとともに「純白の夢よぶ世界のひろば」というメッセージも書かれています。




平成3年(1991年)

【青函トンネルの繁栄と安全を願い、「ニシンの群来」のプレートを制作】


 前年に行ったトンネル採掘者の偉業を称える五百羅漢に続き、メモリアルボードに鰊の群来(くき)を一枚ずつ描き、賛同者を募って吉岡海底駅と竜飛駅構内へ設置しました。道内の観光地の大きな陶板も一緒に描いた本間は、「北海道へ訪れる人を北海道のシンボル鰊が出迎えるのは最高の歓迎だと思います」と語り、協力を呼び掛けました





平成4年(1992年)
【千歳空港着陸一号機「北海一号」を完全復元】



 1988年に民間機専用の飛行場として開港した新千歳空港は、その後利用者が増え続け現在では国内屈指の利用者数を誇っていますが、その新千歳空港と隣接する千歳空港の第一歩となったのが、1926年に千歳村の村民達の手によって完成した200mの滑走路でした。この滑走路は、小樽新聞社社機「北海一号」が上空を周回する知らせを聞いた村民たちが、「せっかくだから千歳に着陸をしてもらおう」と緊急会議を開き、村民と在郷軍人など約400人が参加して、200mの滑走路を2日がかりで造り上げたものです。この逸話に本間は、「当時の村民が一致団結して滑走路を造った大正版"村おこし"に感銘を覚えるし、感無量のものがある。当時の村民の気持ちと行動力が、今の千歳の礎になっている」と語り、「当時の気持ちを後世に伝えるためにも北海一号機の復元を思い立った」としています。復元の方法としては、資料を集めて本間がミニチュアを製作、それをもとに遠軽町の木工会社が原寸大にしました。「北海一号機」の製造元であった三菱の幹部は、完成した飛行機をみてあまりの精密さに驚いたそうです。それから「北海一号機」は北海道空港情報サービス社を通じ、1992年にオープンした新千歳空港ターミナルビル内に展示することになりましたが、大空に憧れた先人達の夢と飛行機の歴史を伝えるため、その後も北海道空港情報サービス社とともに世界の歴史的飛行機の模型を作り続け、ライト兄弟の「ライトフライヤー号」やリンドバーグの「スピリット・オブ・セントルイス号」、レオナルド・ダ・ヴィンチの試作機など合計8機が同ターミナルビル内にて公開されました。





平成5年(1993年)
【文化施設をリニュアルオープン。入場料大人:700円、小中学生300円】



 1987年に建設した文化施設をリニュアルオープンしました。私(本間いずみ)は当時を知らないのですが、方向転換をしようとしていたのがよくわかります。戦争と平和や、仏教にまつわる静かな死生観は、まちの開発にあまり馴染まなかったのではないでしょうか?そこで仏像の起源であり異文化融合の象徴であるギリシャ風仏教美術(ガンダーラ美術)を中心とし、46億年前の隕石や化石、魂の生まれ変わりの象徴である蝶の標本、ヒマラヤ少数民族の喜怒哀楽が凝縮された仮面等を多数コレクションに追加し、生命の息吹を感じる博物館にリニュアルしました。また、敷地内には北海道庁赤レンガやハリストス正教会、鰊御殿などのミニチュアも作り、「北海道の厳しい自然に耐えた歴史的建築物を、市民が身近に感じるチャンスになれば」と語っていました。


              
  



平成5年(1993年)
【洪水に見舞われたバングラディシュに「ホンマ・タケオ医療チーム」が発足】


平成5年(1993年)に北海道大学医学部の留学生だった青年に贈った善意がもとで、伝染病などの治療を行なう「ホンマ・タケオ医療チーム」がバングラディシュに発足しました。この話題は現地の新聞でも取り上げられ、個人でバングラディシュの医療に対する寄付を行った初めての外国人であったため、大きな反響を呼びました。本間は「まさか医療チームができるなんて」と驚きながら、今後も出来る範囲で支援を続けていきたいと話していました。そして翌年の1994年にはシルクスクリーン版画のカレンダーを制作し、売上げを全額バングラディシュに寄付したり、寄付を集めて救急車を贈るなど慈善活動を続け、バングラディシュからも北海道南西沖地震の際にお見舞いが届くなど、両者のあいだで交流が続きました。





平成5年(1993年)
【在日スペイン人へのボランティアがきっかけでスペイン王立美術院から感謝状が届く】 


 スペイン国立ロイヤルアカデミー・サン・カルロス王立美術院から、「会員がお世話になりました」と感謝状が届きました。本間がお世話をした同美術院の会員は、渡島管内八雲町にアトリエをもつスペイン人の画家の男性で、三年前に来道し絵画活動を続けてきましたが思うように絵が売れず、スペインにも工場のある室蘭市内の新日鉄製作所に相談したところ、社内誌の表紙を描いていた本間を紹介されたそうです。本間は絵の販売手続きや生活の面倒をみたほか、懇親的に絵の指導などもし、その後一時帰国したスペインの画家が本間の善意を美術院に報告したころ、感銘を受けた院側から感謝状が贈られてきました。感謝状は、サン・カルロス王立美術院総裁の署名入りで、「ご支援に心より感謝したい」「当王立美術院は、本間先生を日本を代表する芸術家として認定する」「スペインへの来訪を期待しています」などと記載されており、突然の感謝状に驚きを見せたものの、「自分ではあまり大したこともしていないが、王立美術院からのお礼は大変嬉しく光栄なこと」と話していました。





 平成6年(1994年)
【ノアの箱舟美術館を構想し模型を制作】


この年、「画家としての集大成になるものを」と夢を膨らませ、木造のノアの箱舟を作り、その内部をキャンバスに見立てて描く「ノアの箱舟美術館」を構想しました。ノアの箱舟は旧約聖書で洪水から人と動物を救ったとされています。そこで以前から箱舟というモチーフを使い、「自然破壊や地球の環境問題に警鐘を鳴らすことが出来ないか?」という思いを温めてきており、内部には絶滅危惧種の野生動物を描く予定でした。




平成6年(1994年)
【ふるさと切手「エゾシカ」の原画制作】



平成6年(1994年)

【旧ソ連の貴重なフィルムをビデオ化へ】

この年、旧ソ連政府が国外へ自国の文化を紹介するために制作したフィルム600本を入手し、ビデオ化して図書館や研究者らに貸し出そうと考えました。このフィルムは1970年代に制作されたもので、少数民族の興味深い生活や厳しい風土など自然を描いたものが多く、「文豪トルストイとプーシキンの周辺」など、旧ソ連の歴史や芸術なども幅広く取り上げていました。損傷が激しく全てはビデオ化できませんでしたが、本間は「国家の威信をかけて作った意気込みが感じられる。取材には相当の時間と資金がかかったはず」と話し、このビデオは恵庭市にある本間コレクションでも上映されました。(写真は新聞記事のものです)





平成7年(1995年)
【繁栄と平和の願いを込めて仏画を制作。故郷余市のお寺へ寄贈】


平成7年(1995年)に、故郷余市の大乗寺へ余市や祖国の繁栄と平和を願う油絵(各2m四方)3点を寄贈しました。この油絵は、幼なじみの住職から「11月に完成する葬祭場の祭壇に飾る仏画を描いてほしい」と頼まれ、自宅アトリエで8ヶ月をかけて描いたものです。本間は当時、「体力的に疲れたが寺を訪れる人たちに喜んでもらえることを思えば辛くはなかった」と語り、住職も「信徒一同、喜んでくれるでしょう。寺の宝物として大切に保存します」と話していました。絵は、渦を巻く昇り龍を背景に優美な表情を浮かべる瑞竜観音(右)、右手に剣、左手に鈴付きの縄を持ち、荒波の上に立つ「波切不動」(左)、夜明けにハスの花を持ちながら座禅を組む「明星観音」(中央)の3点で、それぞれ日本や余市の繁栄、漁業の安全と魚介類保護、農業の発展への願いが込められています。




平成8年(1996年)
【海に挑んだ人類の歴史を辿る帆船づくり】

1991年から製作を続けていた飛行機模型に目処が立ったことから、今度は第二の故郷である港町・苫小牧市で「人類と海の歩みを紹介したい」と思い立ち、歴史的な帆船のミニチュア作りに挑戦しました。この取り組みは、紀元前から十九世紀ごろにかけて、世界各地で建造・利用された46隻を1/75サイズで復元するもので、6,000年以上も前から人類とともに歩み、海上交通手段として世界に繁栄をもたらした帆船達の歴史をたどり、先人達の夢とロマンを身近に感じてもらえればと構想したものです。スタッフ十五人で製作した木製のミニチュア帆船は、紀元前にエジプトで使用された「ファラオの船」、コロンブスがアメリカ大陸を発見した際に乗っていた「サンタマリア号」、日本を代表する帆船「日本丸」などで、マニアからも高い評価を受けました。また、この構想に際して俳優の森繁久弥さんから激励の詩が届いており、「海どのと船君」と題されたこの詩も完成した46隻の帆船と一緒に紹介しました。本間は製作した帆船のその後について、「海の町(苫小牧)の名物として、行政などが街づくりの一環で活用してくれれば」と話しており、恵庭市の本間コレクションでも展示公開されました。

 


 平成9年(1997年)
【高さ2m、長さ140mの油絵「北海道の四季」の製作に着手】

 この年、画家生活50周年を記念して、大壁画「北海道の四季」の製作を始めました。「北海道の四季」は2年にわたり描き続ける予定だった壁画で、完成後の大きさは高さ2m・長さ140mにもなる見込みでした。冬には冬の風景を、春には春の風景を描きながら、道内各地の春夏秋冬を左から右へ連続的に変化させ描いていきました。市民や企業、宝塚歌劇団をはじめとする皆様より絵の具代・キャンパス代の支援を戴いた代わりに、製作のために借りた空き店舗に椅子を並べて、フルタイムで仕上がっていく様子を公開するなどしていました。しかし翌年に脳梗塞で倒れ、画家としての生命が絶たれてしまい、「北海道の四季」は日の目を見ることなく終わっています。「北海道の四季」は北海道の開拓史になぞらえ、厳しい冬から描き始め、実りの秋で完成するよう構想していました。こうして、言葉ではなく絵(創作物)にメッセージを託し、見る人の感性に委ねる活動は、作家としての表現方法の一つであり、本間の人生そのものだったのではないか?と思います.。



平成10年(1998年)
郵政省80円切手「シバザクラ」「ナナカマド」原画制作】





 2006年永眠








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