【回想録3】
  
一枚の水彩画に感動


 私は運がいいのだろうか。


 次の日リュックを背負って小樽にリンゴを売りに行った。品のいいおじさんが出て来て、何でもいいから上がれと言う。中には誰もいない。そのおじさんはリンゴなんかどうでもいい。ただ私のリュックサックの紐をくれ―と言う。言われるままに紐を渡すと、なにか平たく丸いものに器用に渦巻き状に巻いて、竹の皮に包んでいた。


 君、ちょっと手伝って行け、というその図々しさに圧倒され次の間に入ると、木版画を刷っていたのである。


 初めて見るその仕事に時を忘れていたら、奥様が帰って来られた。毎度のことなのか苦笑され、リンゴを全部買って、代わりの紐をくれた。麻紐がなくて困っていることも聞いた。何かごちそうになり、そのときに「君は絵に興味はないか」と聞かれ、今まで伝票の裏に描き続けてきた絵を見せた。


 おじさんは人が変わったように一枚、一枚見ていた。「だれに習ったのか」と聞かれた。「独りで、分からないまま描いている」と答えると、「おれのところへ来ないか」と言う。


  私はためらった。ニ、三日後に十勝の御影(今の清水町御影)へジャガイモを掘りに行くことになっていた。「考えさせてください」と言って帰りがけに台所にふと目をやると、そこに一枚の水彩画があった。リンゴの絵である。それはもう紙でも絵の具でもない本物のリンゴが無造作に置かれていた。私は立ち尽くしていた。絵がこれほど素晴らしいものなのか。自分の一生をかけても余りあるもの。気がつくとそのおじさんがじっと私を見ていた。水彩画家の宮崎信吉先生(故人)だった。




 



  







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