■□1枚の水彩画に感動
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 戦争が激しくなり、私は東京の軍需工場で働くことになった。中島飛行機三鷹研究所だった。中島飛行場で私が整備していたのが「空とぶ棺桶」とひそかに言われていた「キ一一五特攻機・剣」だ。本土決戦用の特攻機で、脚は一回飛び立ったら必要ないため降下式だった。戦争は残酷である。終戦まで百五機が完成したが、実戦には使用されなかったのがせめてもの幸いである。



 その後終戦を三鷹駅で知った。その足で岩手の黒沢尻に行き、後藤野の飛行場で残務整理をした後、十一月に北海道余市に帰って来た。



 故郷の空は実りの秋に赤トンボがいっぱい飛び交い、海は磯の香を漂わせていた。嘘のような静けさである。これが平和というものだろうか、何とも実感がわかない。自分の存在が何なのか、個人の幸せなど考えたこともないからだろう。目標がないのだ。うつろな毎日が続いた。



 食うために小樽のヤミ市に出入りしていた。小樽のヤミ市に通う汽車の中、待合室などで伝票の裏に絵をかいてかきまくった。夜汽車の窓に映る自分の顔に問いかけてみる。このままでいいのか。いや、おれは絵かきになろう。そのとき、どういう訳か宮本武蔵が私の頭の中いっぱいに広がった。俺は武蔵になるぞ。余市駅に降り立った私は、星空の下を固く誓いながら一人で興奮して歩いた。昭和二十一年(一九四六年)九月のことである。



 私は運がいいのだろうか。



 次の日リュックを背負って小樽にリンゴを売りに行った。品のいいおじさんが出て来て、何でもいいから上がれと言う。君、ちょっと手伝って行け、というその図々しさに圧倒され次の間に入ると、木版画を刷っていたのである。




 初めて見るその仕事に時を忘れていたら、奥様が帰って来られた。毎度のことなのか苦笑され、リンゴを全部買って、何かごちそうになり、そのときに「君は絵に興味はないか」と聞かれ、今まで伝票の裏に描き続けてきた絵を見せた。




 おじさんは人が変わったように一枚、一枚見ていた。「だれに習ったのか」と聞かれた。「独りで、分からないまま描いている」と答えると、「おれのところへ来ないか」と言う。



 私はためらった。ニ、三日後に十勝にジャガイモを掘りに行くことになっていた。「考えさせてください」と言って帰りがけに台所にふと目をやると、そこに一枚の水彩画があった。リンゴの絵である。それはもう紙でも絵の具でもない本物のリンゴが無造作に置かれていた。私は立ち尽くしていた。絵がこれほど素晴らしいものなのか。自分の一生をかけても余りあるもの。気がつくとそのおじさんがじっと私を見ていた。水彩画家の宮崎信吉先生(故人)だった。



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