【回想録5】
  東京へ心揺れ動く



 素面(しらふ)でいるのが恐ろしくて、酒を飲み始めた。もう後戻りはできない。宮崎先生のあの描写、斎藤先生のあの流れるような線の美しさ。もうかなわないと思う。あきらめようとも思う。しかし何か私に修羅の道を歩ませるのである。


 宮崎潔先生は別の目で私を見ていたようである。同じ悩むのならもっと知恵のある悩み方をしなさい。酒を飲んでも冷めたら空しくなるだけだ―と。優しい人であった。しかし実業家としての冷酷とも見える判断の人でもあった。荒んでいる私を大きな目で見守っていた。


   商業美術界において当時、私はミサイルのような破壊力を持っていたようだ。商社のプレゼンテーションにおいてよく成果を上げていた。

中略

しばらくのあいだ、小樽の丸井今井の宣伝部で働いた。当時、昭和二十八・九年ごろ、私の月収は他の他二・三の委託の分を含めて十八万円くらいであった。宣伝の仕事は次から次へ舞い込んでくる。それを夢中で仕上げる。若さに任せてのこと、勢いもあった。


 仲間と酒もよく飲んだ。夕方五時頃になると何となく四、五人集まってくる。絵描き、デザイナー、たまに詩人などもいる。小樽に「親不孝通り」というのがあった。うまい名前をつけたものである。毎日のようにその通りを、親不孝者を連れて飲んで歩いた。


 しかしいくら酔って帰っても、仕事をしなければならない。あのころ写植というものがなく、ニミリ位のゴシック体文字まで、きれいにペンで書いた。写真製版なので、書いた文字がそのまま図柄になる。立って歩けないくらい酔っている。それでも仕事はきちんとできている。まさに神業であった。


 そんな毎日が続いたが、ふと我に返るときがある。みんながネクタイをしてきちんと仕事をしている。その中で自分一人が酒びたりでいいはずがない。私はだまって丸井を辞めて東京へ行こうとした。昭和二十九年(一九五四)、九月のことだった。


 列車に乗り函館に着いた。台風が近づいていた。連絡船まで時間がある。酔っていても不安だったのだろう。街の手相屋に見てもらった。一人では信じられず三人に見てもらった。皆同じことを言う。東京などへ行かず、まっすぐ帰れという。最後に駅前近くのちょうちんで、おかみさんが酒を注ぎながら小樽へ帰るよう熱心にすすめた。


 これで揺れ動いていた私の腹が決まった。そのまま汽車に乗って余市駅まで引き返した。駅についたその足で姉の家に行った。風雨はますます激しく、朝まで窓ガラスを叩いていた。その夜、函館を出た青函連絡船、洞爺丸が沈んだ。



 



  







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