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このページでは弊社(創業者)のあゆみをご紹介いたします。


昭和50年(1975年)
【北方領土返還を願ってマラソン展覧会】
 昭和50年(1975年)に北方領土返還を願い、道内二十都市をリレー式で回る「マラソン展覧会」を行いました。本間は表紙が納沙布岬の画集「灰色の旅情」を自費出版しており、知人のアートディレクターと話すうちにこの企画を思いつき、北方領土復帰期成同盟が後援してくれることになりました。
 短期間の展示ではその場限りになってしまうので、北方領土にゆかりのある絵を一枚ずつ、二週間ごとに変えて一年間絶え間なく飾る方式にし、根室市のほか網走・北見・紋別・釧路など道内二十市の公民館や市民会館を会場に選びました。
 展示されたのはどれも100号の力作ばかりで、納沙布岬や国後島などオホーツク海を題材にしており、同じ北海道の海でも故郷・余市町が面する日本海とは違った厳しさと美しさを表現した作品でした。
 本間は当時、「北方領土の復帰は非常に難しいだろうが、北海道に生まれ育った画家の一人として、復帰運動に協力できるこの展覧会は最後までやりとげたい。一人でも多くの人達が『次はどんな絵が展示されるのだろう』と関心を寄せてくれるようになれば、復帰運動にも必ず役立つと思う」と語っていました。


北方領土問題とは:
 日ロ平和条約の締結が急がれる中、両国の関係を難しくしている悩みの種のひとつ。1945年8月9日に始まった旧ソ連の対日戦争の結果、8月28日から9月にかけて占領された日本の領土(択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島)の主権問題。
 旧ソ連の対日戦争が、日ソ中立条約に違反しての戦争だったため、今でもしこりを残す結果となりました。また、第二次世界大戦の終戦日についても、日本側は8月15日、ロシアは9月2日となっており、こうした認識の違いも問題を難しくしています。
昭和54年(1979年)
【第一回日本・スペイン現代絵画トリエンナーレ展で入選】
 「雪の朝/シルクスクリーン40号」が、第一回日本・スペイン現代絵画トリンエナーレ展で入選し、スペインバルセロナ市・ヴィレナ宮殿で開催された同展にて公開されました。本間は美術団体に属しておらず、それまでは国際公募展に応募することもありませんでしたが、この時は知人の勧めで出展を決めました。入選後、「シルクスクリーン版画は摺師という裏方がいて初めて作品になる。久保田君に感謝したい」と語っていました。
昭和54年(1979年)【故郷余市町に油絵を寄贈】
昭和56年(1981年)【紺綬褒章を受賞】
 道内を転々としていた本間が、望郷の気持ちを絵筆に込め、「余市川暮色」と題する大きな油絵(二百号)を生まれ故郷・余市町に贈りました。友人の一人から、「開町80年を記念して建設されている3階建ての公民館のロビーに君の絵を展示したい」という電話があり、これを受けてのことでした。
 本間は、青春時代にニッカの野球部に所属しており、工場裏の余市川を中心にスケッチして題材を検討した結果、「余市川の夕映え」にテーマをしぼりました。
 「余市川でフナを釣ったりして楽しんだ思い出が、絵を描いていると次々とよみがえってきた」と周囲へ語っており、油絵の評価額が紺綬褒章対象の評価額を超えていたことから、町民や余市町役場が本間を紺綬褒章に推薦し、1981年、画家としては非常に珍しいケースで同賞を受賞しました。
 本間は当時、苫小牧に住んでいたので、「第二の故郷である苫小牧市にも、施設に絵を贈ったり催し物のデザインを行うなどして貢献をしていきたい」と語っていました。
昭和56年(1981年)
【千年の鑑賞に耐えられる「昭和の絵曼荼羅」を制作】
 曼荼羅とは、インドのサンスクリット語の音訳で「仏教の本質・仏の悟りの境地」のことをいいます。曼荼羅絵図は仏陀の悟りの内容を、それぞれの仏格に表すことにより整理して図示解明したもので、平安時代から鎌倉時代には様々な曼荼羅図が描かれましたが、景観を主とするもの以外は約四百年ほど前から製作が途絶えていました。
 しかし、日蓮聖人逝去から七百年の節目であったこの年、東京にある日蓮宗の道場より依頼を受けて、江戸初期から描かれていないという法華経の絵曼荼羅を制作することになりました。
 本間は信者ではありませんでしたが、関係者の指導を受けて曼荼羅の法則を崩さず、日蓮聖人など三十六人を配した構図で描くことにしました。通常は光のみの絵曼荼羅に影を取り入れ、宇宙の真理を表現し、千年の観賞に耐えるよう油絵の具を用いるなど、全く新しい手法で昭和の曼荼羅を仕上げました。
 それまでも仏画は描いていましたが、新しい手法を取り入れた昭和の絵曼荼羅について、「この作品は三十五年の画家生活を問われるものだ」と語り、制作にあたって精神統一のため日々瞑想を行っていました。また、各方面に依頼し絵曼荼羅の資料を取り寄せたり、国宝級の作品を京都に出向き鑑賞するなど、それまで以上に仏の世界へ理解を深めていくきっかけとなりました。
昭和56年(1981年)
【フランス・オンフルール展にシルクスクリーン版画が招待出品される】
 オンフルール市美術館と欧州美術クラブの共催で開かれた同展に、あかね色に染まって暮れゆく釧路の河口を広角で描いた、シルクスクリーン「釧路の夕映え」が招待出品されました。出品したのは変化していく空の姿と水面の細かな波に、建物と船のシルエットが黒く浮びあがる印象的な作品です。
 オンフルール市はフランスの印象派・モネが暮らしたノルマンディーの美しい港で知られる街で、この展覧会は関係者の間でも高い位置づけをされていました。
昭和57年(1982年)
【新宿センタービル51階朝日生命ギャラリー、池袋西武、銀座松坂屋、札幌三越にてパステル画展開催】

 デパートでの展示会の様子
昭和58年(1983年)
【反戦壁画「十界彷徨」の制作に着手。タイトルは書道の大家、町春草さん】
 「十界彷徨(じゅっかいほうこう)」は、1983年に製作を開始し1984年に完成した縦2メートル・横40メートルにわたる大壁画で、「幼少の頃お寺でみた"地獄極楽"の絵巻が脳裏に焼き付いて離れず、自分と同じように子供たちが大人になっても心の中に残るものを」と考え、平和の尊さと戦争の悲惨さを後世に伝えるために取り組んだ作品です。
 大きなキャンバスは、「開戦」「原爆」「平和」の三部構成で、「開戦」では真珠湾攻撃、ミッドウェー開戦、マニラ北方基地から飛び立ち帰らぬ人となった"ゼロ戦神風第一号・関行男大尉"を模した特攻隊員とともに、不安や恐怖に慄く人々や全身に怒りをたぎらせた仁王の姿を描きました。
 タイトルは国内屈指の書道家である町春草さんへ資料を送り相談をしたところ快諾して頂きました。「十界」とは仏教用語で「全世界」を意味し、「さまよえる現代にぴったりのタイトル」と本間は語っています。
 この作品へは問い合わせが多くあり、各メディアでも取り上げられ、この年の終戦記念日にあわせて道内各地で展示することになりました。また、希望があれば学校など教育機関にも貸し出すとも語っていました。


昭和58年(1983年)
【北の画集Ⅰを出版】
 北の画集はⅠからⅣまで出版したパステル画と版画中心の作品集です。出版にあたり、多くの企業や著名人の方たちにご協力とご声援をいただきました。本間に代わりまして心より感謝申し上げます。

昭和60年(1985年)
【皇太子さまご夫妻(今上天皇)へニシンのパステル画を贈る】
 昭和60年(1985年)に皇太子さまご夫妻(今上天皇ご夫妻)が来道し、サロマ湖で行われた「第五回・全国豊かな海作り大会」へご出席されました。この時にニシンの稚魚を放流し、お泊りになられたホテルの部屋に本間の版画が3点飾られたことから、これを記念してニシンのパステル画を進呈させていただきました。
 ホテル側から部屋へ飾る版画の注文があったときには、「北海道らしい風景を」とだけしか聞いておらず、後に皇太子さまご夫妻に見せるためだったと聞かされたそうです。
 後日手塚侍従長から電話があり、皇太子さまがたいそうお喜びになって、「ホテルの部屋の版画も興味深く見せてもらった、本間によろしく」と仰っていたそうです。
昭和62年(1987年)
【平和と豊作を祈り最上稲荷山妙教寺の絵曼荼羅制作】
  反戦壁画「十界彷徨」や昭和の曼荼羅の話を伝え聞きいた岡山県最上稲荷妙教寺より、千二百年大祭に奉納する「最上尊絵曼荼羅」の制作を依頼されました。同寺は比島観音を設け、第二次世界大戦中フィリピンで戦死した五十万人の供養祭を行っており、伏見・豊川と並ぶ日本三代稲荷のひとつで神仏習合のお寺です。本間は当時、「神・仏合体の図とし、平和な暮らしを願い、豊作を祈願したものにしたい」と語っています。
 早速稲荷関係の資料や仏像を集め、中央には同寺の開祖が苦修錬行の際に稲荷山八丈岩で感得したという「最上位経王大菩薩」を描き、右には「開山報恩大師像」、左には稲荷の使い「白ギツネ」を描きました。また、菩薩の右手には鎌、左手には稲が握られており、豊作の願いも表現しています。色々な資料を基にして、自由に心休まる気持ちで描いたこの絵曼荼羅は、同寺が設けた特別室に収められ永久保存されました。
昭和62年(1987年)
【郵政省お年玉付き年賀はがき原画制作】
 
お年玉付き年賀はがき「くまっこ」回想録>>
昭和62年(1987年)
【恵庭市に文化施設を構想】
 所有していた仏像の展示と仏画の制作拠点として、「水と緑のやすらぎプラン」のある恵庭市牧場地区に土地を購入(紫雲台孝子堂宝物館近く)。しかし展示館を建設する場所が恵庭市白樺町へ変更になる。(最初に建設した施設の呼び方について、本間が回想録で使用している「仏像彫刻展示館」に統一します)
昭和63年(1988年)
【仏像彫刻展示館オープン。入場料無料】
  昭和62年(1987年)から恵庭市白樺町の漁川のほとりに、展示物を用意したり庭園やリンゴ園を作ったりして仏像彫刻展示館をオープンさせました。敷地内には大きな涅槃像がシンボルとして設置されましたが、この涅槃像はもともと牧場地区に購入した土地での構想でしたので、ご説明は控えさせていただきます。なお、敷地内には他に森繁久彌さんから頂いた「道は遠く ただコスモスの風に揺れ いづこに行くか北のまた北」の詩碑や、オノヨーコさんと町春草さんにご協力をいただいて制作したジョン・レノンの碑、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩碑、原爆の火のガス灯なども設置されました。


【建設準備の様子】


【左から】敷地内に制作した詩碑と記念碑、館内の展示物、当時の新聞記事
昭和63年(1988年)
【恵庭大橋のブロンズ像「夏の日」と「冬の朝」をデザイン】
昭和63年(1988年)に開通した恵庭バイパスの恵庭大橋に、春夏秋冬をイメージした「乙女の像」4体と橋台公園が設置されることになり、「乙女の像」のうち2体を本間が担当しました。本間が担当したのは「夏の日」と「冬の朝」です。橋台公園もそれぞれ四季をテーマに作られました。
平成2年(1990年)
【第41回さっぽろ雪まつりポスターデザイン】
 さっぽろ雪まつりのポスターに、これまで2度本間のデザインが採用されています。一度目は平成2年(1990年)のデザインで、赤い手袋の雪だるまと鳩を描き温かみのあるほのぼのとした印象に仕上げました。
 二度目は平成7年(1995年)の赤いショールを身にまとった雪だるまで、目にうっすらと青を入れ外国色も出し、北海道の国際化と平和を願うデザインにしました。このポスターには雪だるまとともに「純白の夢よぶ世界のひろば」というメッセージも書かれています。

  
平成2年(1990年)
 仏像彫刻展示館周辺を教育文化ゾーンとする「恵庭市教育文化ゾーン整備基本計画(平成元・2年度調査報告、概要版)」が作成される。仏像彫刻展示館一時閉館。
平成2年(1990年)
【青函トンネル採掘者の偉業を称える五百羅漢を制作】
 この年、昭和63年(1988年)に開通した青函トンネルの吉岡海底駅の壁面を一万枚のメモリアルボードで飾るキャンペーンをJR北海道が企画しました。
 このキャンペーンは、希望者が一枚一万円の陶板を購入し、自分の好きなものを描いて吉岡海底駅に飾るというものです。
 しかし本間は、「着工から24年の間に命を落とした人もいると聞いている。JR北海道の企画は素晴らしいが、掘った人達への感謝が欠けているのではないか」として、同キャンペーンの一区画500枚の陶板を買い取り、ここへ掲示する五百羅漢の賛同者を、JRキャンペーンと同じ一枚一万円で募集しました。
 陶板は、トンネルを採掘する際に出た土に多治見産の陶土を併せたもので、中央にはお地蔵様の顔に似せた表情を、その下には申込者の名前も一緒に彫りました。歌舞伎界の片岡我当さんと知り合いだったことから、歌舞伎界、芸能界の方にも賛同いただき、五百羅漢は吉岡海底駅に取り付けられました。
平成3年(1991年)
【青函トンネルの繁栄と安全を願い、「ニシンの群来」のプレートを制作】
 トンネル採掘者の偉業を称える五百羅漢に続き、今度はメモリアルボードに鰊の群来(くき)を一枚ずつ描き、賛同者を募って吉岡海底駅と竜飛駅構内へ設置しました。道内の観光地の大きな陶板も一緒に描いた本間は、「北海道へ訪れる人を北海道のシンボル鰊が出迎えるのは最高の歓迎だと思います」と語り、協力を呼び掛けました。

平成3年(1991年)
  「恵庭市教育文化ゾーン整備基本計画(平成元・2年度調査報告・概要版)」に沿って設立主体を決定し文化施設を再建設。株式会社本間武男を設立(本社苫小牧市見山町、支店恵庭市恵み野)
平成4年(1992年)
【千歳空港着陸一号機「北海一号」を完全復元】
 1988年に民間機専用の飛行場として開港した新千歳空港は、その後利用者が増え続け現在では国内屈指の利用者数を誇っていますが、その新千歳空港と隣接する千歳空港の第一歩となったのが、1926年に千歳村の村民達の手によって完成した200mの滑走路でした。
 この滑走路は、小樽新聞社社機「北海一号」が上空を周回する知らせを聞いた村民たちが、「せっかくだから千歳に着陸をしてもらおう」と緊急会議を開き、村民と在郷軍人など約400人が参加して、200mの滑走路を2日がかりで造り上げたものです。
 この逸話に本間は、「当時の村民が一致団結して滑走路を造った大正版"村おこし"に感銘を覚えるし、感無量のものがある。当時の村民の気持ちと行動力が、今の千歳の礎になっている」と語り、「当時の気持ちを後世に伝えるためにも北海一号機の復元を思い立った」としています。
 復元の方法としては、資料を集めて本間がミニチュアを製作、それをもとに遠軽町の知人が原寸大にしました。「北海一号機」の製造元であった三菱の幹部は、完成した飛行機をみてあまりの精密さに驚いたそうです。
  それから「北海一号機」は北海道空港情報サービス社を通じ、1992年にオープンした新千歳空港ターミナルビル内に展示することになりました。大空に憧れた先人達の夢と飛行機の歴史を伝えるため、その後も本間と北海道空港情報サービス社は世界の歴史的飛行機の模型を作り続け、ライト兄弟の「ライトフライヤー号」やリンドバーグの「スピリット・オブ・セントルイス号」、レオナルド・ダ・ヴィンチの試作機など合計8機が同ターミナルビル内にて公開されました。

平成5年(1993年)
【仏像彫刻展示館を「本間コレクション」としてリニュアルオープン。入場料大人:700円、小中学生300円】
 私(真藤)は当時を知らないのですが、仏像彫刻展示館について本間が方向転換をしようとしていたのがよくわかります。戦争と平和や、仏教にまつわる静かな死生観は、まちの開発にあまり馴染まなかったのではないでしょうか?そこで仏像の起源であり異文化融合の象徴であるギリシャ風仏教美術(ガンダーラ美術)を中心とし、46億年前の隕石や化石、魂の生まれ変わりの象徴である蝶の標本、ヒマラヤ少数民族の喜怒哀楽が凝縮された仮面等を多数コレクションに追加し、生命の息吹を感じる博物館にリニュアルしました。また、敷地内には北海道庁赤レンガやハリストス正教会、鰊御殿などのミニチュアも作り、「北海道の厳しい自然に耐えた歴史的建築物を、市民が身近に感じるチャンスになれば」と語っていました。





【本間コレクションの外観と庭園】


【本間コレクションの中の様子】


【本間コレクションの展示物】学問、知恵、財産、芸術の女神弁財天、ヒマラヤ少数民族の仮面、インド(カルカッタ)ヒンズー教のお祭りの山車飾り


【本間コレクションの展示物】子供も楽しめるように展示された恐竜の骨格(エドモントザウルス)、直径約1mのアンモナイト、北海道庁赤レンガのミニチュア(1/20の大きさ
平成5年(1993年)
【洪水に見舞われたバングラディシュに「ホンマ・タケオ医療チーム」が発足】
 平成5年(1993年)に北大医学部の留学生だった青年に贈った善意がもとで、伝染病などの治療を行なう「ホンマ・タケオ医療チーム」がバングラディシュに発足しました。この話題は現地の新聞でも取り上げられ、個人でバングラディシュの医療に対する寄付を行った初めての外国人であったため、大きな反響を呼びました。本間は「まさか医療チームができるなんて」と驚きながら、今後も出来る範囲で支援を続けていきたいと話していました。

 そして翌年の1994年にはシルクスクリーン版画のカレンダーを制作し、売上げを全額バングラディシュに寄付したり、寄付を集めて救急車を贈るなど慈善活動を続け、バングラディシュからも北海道南西沖地震の際にお見舞いが届くなど、両者のあいだで交流が続きました。
平成5年(1993年)
【在日スペイン人へのボランティアがきっかけでスペイン王立美術院から感謝状が届く】 
 スペイン国立ロイヤルアカデミー・サン・カルロス王立美術院から、「会員がお世話になりました」と感謝状が届きました。本間がお世話をした同美術院の会員は、渡島管内八雲町にアトリエをもつスペイン人の画家の男性で、三年前に来道し絵画活動を続けてきましたが思うように絵が売れず、スペインにも工場のある室蘭市内の新日鉄製作所に相談したところ、社内誌の表紙を描いていた本間を紹介されたそうです。
 本間は絵の販売手続きや生活の面倒をみたほか、懇親的に絵の指導などもし、その後一時帰国したスペインの画家が本間の善意を美術院に報告したころ、感銘を受けた院側から感謝状が贈られてきました。
 感謝状は、サン・カルロス王立美術院総裁の署名入りで、「ご支援に心より感謝したい」「当王立美術院は、本間先生を日本を代表する芸術家として認定する」「スペインへの来訪を期待しています」などと記載されており、突然の感謝状に驚きを見せたものの、「自分ではあまり大したこともしていないが、王立美術院からのお礼は大変嬉しく光栄なこと」と話していました。
平成6年(1994年)
【ふるさと切手「エゾシカ」の原画制作】

1994年ふるさと切手「エゾシカ」
平成6年(1994年)
【旧ソ連の貴重なフィルムをビデオ化へ】
 この年、旧ソ連政府が国外へ自国の文化を紹介するために制作したフィルム600本を入手し、ビデオ化して図書館や研究者らに貸し出そうと考えました。このフィルムは1970年代に制作されたもので、少数民族の興味深い生活や厳しい風土など自然を描いたものが多く、「文豪トルストイとプーシキンの周辺」など、旧ソ連の歴史や芸術なども幅広く取り上げていました。
 損傷が激しく全てはビデオ化できませんでしたが、本間は「国家の威信をかけて作った意気込みが感じられる。取材には相当の時間と資金がかかったはず」と話し、このビデオは恵庭市にある本間コレクションでも上映されました。(写真は新聞記事のものです)

平成7年(1995年)
【繁栄と平和の願いを込めて仏画を制作。故郷余市のお寺へ寄贈】
 平成7年(1995年)に、故郷余市の大乗寺へ余市や祖国の繁栄と平和を願う油絵(各2m四方)3点を寄贈しました。この油絵は、幼なじみの住職から「11月に完成する葬祭場の祭壇に飾る仏画を描いてほしい」と頼まれ、自宅アトリエで8ヶ月をかけて描いたものです。
 本間は当時、「体力的に疲れたが寺を訪れる人たちに喜んでもらえることを思えば辛くはなかった」と語り、住職も「信徒一同、喜んでくれるでしょう。寺の宝物として大切に保存します」と話していました。
 絵は、渦を巻く昇り龍を背景に優美な表情を浮かべる瑞竜観音(右)、右手に剣、左手に鈴付きの縄を持ち、荒波の上に立つ「波切不動」(左)、夜明けにハスの花を持ちながら座禅を組む「明星観音」(中央)の3点で、それぞれ日本や余市の繁栄、漁業の安全と魚介類保護、農業の発展への願いが込められています。

平成8年(1996年)
【海に挑んだ人類の歴史を辿る帆船づくり】
 1991年から製作を続けていた飛行機模型に目処が立ったことから、今度は第二の故郷である港町・苫小牧市で「人類と海の歩みを紹介したい」と思い立ち、歴史的な帆船のミニチュア作りに挑戦しました。
 この取り組みは、紀元前から十九世紀ごろにかけて、世界各地で建造・利用された46隻を1/75サイズで復元するもので、6,000年以上も前から人類とともに歩み、海上交通手段として世界に繁栄をもたらした帆船達の歴史をたどり、先人達の夢とロマンを身近に感じてもらえればと構想したものです。。
 スタッフ十五人で製作した木製のミニチュア帆船は、紀元前にエジプトで使用された「ファラオの船」、コロンブスがアメリカ大陸を発見した際に乗っていた「サンタマリア号」、日本を代表する帆船「日本丸」などで、マニアからも高い評価を受けました。
 また、この構想に際して俳優の森繁久弥さんから激励の詩が届いており、「海どのと船君」と題したこの詩も完成した46隻の帆船と一緒に紹介しました。本間は製作した帆船のその後について、「海の町(苫小牧)の名物として、行政などが街づくりの一環で活用してくれれば」と話しており、恵庭市の本間コレクションでも展示公開されました。回想録「海どのと船君」>>


平成9年(1997年)
【高さ2m、長さ140mの油絵「北海道の四季」の製作に着手】
 この年、画家生活50周年を記念して、大壁画「北海道の四季」の製作を始めました。「北海道の四季」は2年にわたり描き続ける予定だった壁画で、完成後の大きさは高さ2m・長さ140mにもなる見込みでした。冬には冬の風景を、春には春の風景を描きながら、道内各地の春夏秋冬を左から右へ連続的に変化させ描いていきました。
 市民や企業、宝塚歌劇団をはじめとする皆様より絵の具代・キャンパス代の支援を戴いた代わりに、製作のために借りた空き店舗に椅子を並べて、フルタイムで仕上がっていく様子を公開するなどしていました。完成した「北海道の四季」は画家としての活動拠点であった苫小牧市内に展示スペースを作り、のんびりと歩きながら楽しんでもらえるよう工夫したいと語っていました。
 しかし翌年に脳梗塞で倒れ、画家としての生命が絶たれてしまい、「北海道の四季」は日の目を見ることなく終わっています。「北海道の四季」は北海道の開拓史になぞらえ、厳しい冬から描き始め、実りの秋で完成するよう構想していました。こうして言葉でなく絵(創作物)にメッセージを託し、見る人の感性に委ねようと考えていた姿は、本間の人生そのものを物語っているように思います。
平成10年(1998年)
【郵政省80円切手「シバザクラ」「ナナカマド」原画制作】
 
1998年ふるさと切手「シバザクラ」「ナナカマド」
平成10年(1998年)
【フランスで版画展開催】 
 1998年2月に株式会社日本航空様のご協力により、シャンゼリゼ通りに面した日航パリ市店の店内ギャラリーにて2週間にわたる版画展を開催しました。パリには画家としての成長期に数か月間滞在した経験があり、その後油絵や水彩画の個展も行っています。
 本間は前年より手がけていた油絵「北海道の四季」を展示する場所に、フランスの画家モネにより造られたジヴェルニーの公園を再現したいと語っていました。モネはジヴェルニーの公園に「水の庭」や「花の庭」を造り、観光名所として多くの人が訪れるこの場所を「自身の最高傑作」と語っています。
 本間はこの年の10月に脳梗塞で倒れ画家生命を絶っており、最後の夢を受けてご好意を下さった日本航空様に心よりお礼を申し上げます。

平成10年(1998年)
本間武男脳梗塞で入院、自宅療養
平成11年(1999年)
本間コレクション整理のため本社を苫小牧市見山町から恵庭市島松本町へ移転
代表取締役社長に次男本間誠が就任
平成15年(2003年)
本間コレクションの目途が立たず展示物を搬出
平成16年(2004年)
本間コレクション完全閉館
平成18年(2006年)
創業者本間武男永眠
平成20年(2008年)
肖像権の問題があった本間コレクション敷地内の記念碑について当事者間で話し合い撤去、返却。建物は恵庭市が解体 
平成26年(2015年)
本社を恵庭市島松本町から島松仲町へ移転
平成30年(2018年)
新規事業計画のため定款の事業目的を変更
平成31年(2019年)
定款の事業目的を再度変更
(新しい現在の事業目的はこちらです)

現在に至る















   株式会社 本間武男

    〒 061-1352 北海道恵庭市島松仲町2丁目4番8号
    【TEL&FAX】0123-37-3081 【MAIL】info@t-honma.com

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