このページでは本間が脳梗塞のため画業を引退する直前(1998年)にラルズプラザ札幌店8階催事場にて行なった「北に帰ろう、心のふる里へ 本間武男 水彩画と版画展(北海道百景)」に合わせて作成した回想録の一部をご紹介します。(発行元 恵庭市白樺町1丁目1-1 本間コレクション)







【回想録1】 熱心に絵の道勧める(p.4.)

 私は昭和四年(一九二九年)に日本海に面した後志の余市町で生まれ、育った。余市は北海道でも古くから発展してきた町です。開基百有余年を数え、先人が漁業、農業、文化の各面でこの地に優れた遺産と精神を残して来た。
 子供のころの思い出をたどってみると、四季は実にはっきりしている。春五月、リンゴとナシの花の白と薄いピンクで町はすっぽりと包まれる。自転車で走っても、どこまでもどこまでも霞(かすみ)のように果てしなく続いていた。
    一センチくらいの実がつくと、町中の人がリンゴを虫から守るために袋かけ作業に駆り出される。年中行事の一つ。リンゴのまち・余市は人々もまたリンゴをとても大切にしていた。
 やがて地面にイチゴが赤く色づき、サクランボが雨を気にしながら熟れていく。川で泳ぎ、ウグイを釣る。海に潜ってアワビやウニを採って食べる。 今日、飽食の時代と言うが、味はあのときの自然の恵みに勝るものはない。
 こんなおおらかな少年時代を過ごした私は、余市町立大川尋常高等小学校に入学し、担任の杉本善作先生(故人)と出会うことになった。先生は私に熱心に絵を描くように勧めてくれた。当時絵を描くことがあまり好きでなかった私は、いつも逃げ歩いていた。  

(中略)

 職員室に入る廊下の壁に先生のリンゴとニシンの油絵が飾ってあった。厚塗りの絵の具がどっしりとして不思議な実在感が迫って来る。絵は確かに先生の何かを訴えていた。美しく描くというのでもなく、何か青春のエネルギーのようなものが額縁の檻(おり)の中に閉じこめられているようで、前を通るときはいつも静粛にしていた。  
 その先生と三十数年後に余市町でお会いした。先生は涙を流して私が絵描きになったことを喜んでくれた。  「君は絵を描くために生まれてきたんだ」と言われた。先生の顔が青年のように若く見えた。






【回想録2】 画家になろうと決意(p.5)

 戦争が激しくなり、私は東京の軍需工場で働くことになった。中島飛行機三鷹研究所だった。三鷹の天文台のすぐ下にあり、眼前に調布飛行場が広がっていた。連日連夜、B29の空襲を受け、飛行場からは特攻機が飛び立っていった。壮絶な日々であった。中島飛行場で私が整備していたのが「空とぶ棺桶」ひそかに言われていた(ママ)キ一一五特攻機「剣」だ。敵艦船や上陸用船艇に体当たり攻撃を行うのを目的とした本土決戦用の特攻機で、脚も一回飛び立ったら必要ないため降下式だった。戦争は残酷である。終戦まで百五機が完成したが、実戦には使用されなかったのがせめてもの幸いである。
 終戦を三鷹駅で知った。その足で岩手の黒沢尻に行き、後藤野の飛行場で残務整理をした後、十一月に北海道余市に帰って来た。
 故郷の空は実りの秋に赤トンボがいっぱい飛び交い、海は磯(いそ)の香を漂わせていた。うそのような静けさである。これが平和というものだろうか、何とも実感がわかない。自分の存在が何なのか、個人の幸せなど考えたこともないからだろう。目標がないのだ。うつろな毎日が続いた。
  食うために小樽のヤミ市に出入りしていた。そんな時に余市に疎開していた童画家の高木冨美夫氏と出会った。裸電球の薄暗い下でこの天才画家は黙々と筆を運んでいた。

(中略)

 その高木冨美夫氏は二十九歳の若さで自分の作品をみんな本間にやってくれと遺言を残して早逝した。
 後で御母堂に呼ばれ、いろいろ事情もあり数枚のスケッチをいただいた。毎日、雨の日も風の日も休むことなく、日に何十人もの人物素描をしていたのが忘れられない。
 私もやってみた。小樽のヤミ市に通う汽車の中、待合室などで伝票の裏に絵をかいてかきまくった。夜汽車の窓に映る自分の顔に問いかけてみる。このままでいいのか。いや、おれは絵かきになろう。そのとき、どういう訳か宮本武蔵が私の頭の中いっぱいに広がった。俺は武蔵になるぞ。余市駅に降り立った私は、星空の下を固く誓いながら一人で興奮して歩いた。昭和二十一年(一九四六年)九月である。






【回想録3】 一枚の水彩画に感動(p.6)

 私は運がいいのだろうか。
 次の日リュックを背負って小樽にリンゴを売りに行った。品のいいおじさんが出て来て、何でもいいから上がれと言う。中には誰もいない。そのおじさんは、リンゴなんかどうでもいい、ただ私のリュックサックの紐をくれ―と言う。請われるままにひもを渡すと、何か平たく丸いものに器用に渦巻き状に巻いて、竹の皮に包んでいた。
 君、ちょっと手伝って行け、というその図々しさに圧倒され次の間に入ると、木版画を刷っていたのである。先ほどの平たい竹の皮にロウを塗って刷り始めた。それがバレンで版木に色を塗り紙を合わせてその上から手でこすってプレスするのである。(ママ)
 初めて見るその仕事に時を忘れていたら、奥様が帰って来られた。毎度のことなのか苦笑され、リンゴを全部買って、代わりのひもをくれた。麻ひもがなくて困っていることも聞いた。何かごちそうになり、そのときに「君は絵に興味はないか」と聞かれ、今まで伝票の裏に描き続けてきた絵を見せた。 おじさんは人が変わったように一枚、一枚見ていた。「だれに習ったのか」と聞かれた。「独りで、分からないまま描いている」と答えると、「おれのところへ来ないか」と言う。
  私はためらった。ニ、三日後に十勝の御影(今の清水町御影)へジャガイモを掘りに行くことになっていた。「考えさせてください」と言って帰りがけに台所にふと目をやると、そこに一枚の水彩画があった。リンゴの絵である。それはもう紙でも絵の具でもない本物のリンゴが無造作に置かれていた。私は立ち尽くしていた。絵がこれほど素晴らしいものなのか。自分の一生をかけても余りあるもの。気がつくとそのおじさんがじっと私を見ていた。水彩画家の宮崎信吉先生(故人)だった。

(後略)





 【回想録4】 密かに師超える決意


 大地とすっかり仲良しになり、その雄大なぬくもりに幸せを感じながら時のすぎるのは早かった。
 余市の家に帰った私に小樽からの使いが三度来ていた。水彩画・宮崎信吉先生からだという。あの感動的なリンゴの水彩画の作者である。もう迷うことはなかった。早速お伺いして教えを願った。宮崎先生は大変な喜びようで「潔が楽しみだな」と独り言のようにつぶやいた。その人が先生の弟、宮崎潔氏である。ディスプレー、グラフイックデザインの道内第一人者で、私はこの人にデザインを学び、写実の絵を宮崎先生に学ぶことになるわけである。
 宮崎先生が透明水彩で描くその絵は、ものすごい速さで仕上がっていく。だいたい三十分か一時間。静物画なら、ちょっと薄暗い所なら本物とまず見分けが付かないくらいの出来であった。画面の中に完全に空気がある。パレットを水洗いするとバーミリオンとプルシャンブルーが静かに流れる。これが、あのリアリズムの秘訣(ひけつ)ではなかろうか。私はもう宮崎芸術の真髄を極めようと毎夜一時か二時まで描いてみた。
 それは若く未熟な私には程遠く、まったく無理というものだった。しかし私はただ密かに、宮崎先生に挑戦していたのである。

(中略)

 そのころ、宮崎先生の教えを受けて東京で版画を製作していた斎藤清氏が、サンパウロで開かれた国際展で最高賞を受賞した。日本人として初の快挙だった。その国際版画家・斎藤氏が宮崎先生に報告に来られ、先生と酒を飲んでいたときのことだ。トイレに立った折、私に「本間というのはお前か、頑張れよ」と声をかけた。私も感激していたが、同時に心の中で、おれは必ずこの斎藤清を越えてみせる―と思った。いつか十勝で感じた大地のぬくもりも、あの平和な幸せも、もう心の中の片隅にもなかった。